1:ひろし ★@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:02:44.44 ID:???0.net
邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡について考えるフォーラム「纒向出現―邪馬台国東遷(とうせん)説を考える―」(桜井市主催、読売新聞社後援)が16日、東京・有楽町のよみうりホールで開かれた。

九州北部などの勢力が畿内に進出して邪馬台国を作ったとする東遷説をめぐる議論に、約900人が聞き入った。

遺跡調査の成果が報告された後、九州の勢力が東へ向かったとする柳田康雄・元国学院大教授と、吉備(岡山県)の人々が邪馬台国成立の中心だったと主張する俳優で考古学研究者の苅谷俊介さんが講演。

その後、寺沢薫・同市纒向学研究センター所長を交え、3人で討論。「当時の九州北部に匹敵する規模や豊富な遺物を持つ遺跡は他地域にない」「纒向遺跡では吉備系の文様を使った祭祀(さいし)具などが多く見つかっており、吉備の影響が大きかったことがうかがえる」などと議論を戦わせた。


ソース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141116-00050069-yom-ent

元スレ
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1416142964/

3:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:04:43.21 ID:iJHTWNMa0.net
邪馬台=大和=ヤマト

6:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:07:35.34 ID:LBnIwKCb0.net
>>3
ヤマトなら九州にもいっぱいある

11:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:11:50.41 ID:iJHTWNMa0.net
>>6
なぬ~
なら必ずしも 邪馬台=大和 ではないと・・・

41:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:30:02.99 ID:MWviSRKG0.net
>>11
漢書の原文表記は→邪馬壹國
台は壹の代用として使われてるだけで
実際の読みは「やまと国」か「やまい国」と考えられてるみたいだけど

仮に読みがヤマト国だったとしても
>>6の言う通りヤマトという地名は九州にもあるから
ヤマト国=奈良と言い切れないみたい

185:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 23:10:48.48 ID:/V1NEBLp0.net
>>41
だからさ、ヤマトは元々は九州オリジナルの地名だったんだよ
もちろん邪馬台国もヤマトコクと読む

で、東遷して奈良盆地を、近畿を支配下においた

その地に自分たちの出自である「ヤマト」という名前を付けた


イギリス人が新大陸アメリカの各地に故郷と同じ地名付けたのと一緒だよ

4:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:04:49.05 ID:wQtRVokY0.net
東遷はどうにもご都合主義っぽいよねえ
北九州説にしても近畿説にしても

26:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:23:41.81 ID:j9lyfHYQ0.net
>>4
東遷説がもっともよく説明できる

17:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:18:45.61 ID:SLwtFw3i0.net
ヤマトが東遷したのは、中国で呉が滅ぼされた紀元前500年ごろだろ。
呉から海を渡って移住してきた大王が、稲作を日本に伝え、近畿に住み着いた。
さらに纏向を拠点にして、九州から関東まで統一したのが卑弥呼の時代ってことだ。

241:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 23:27:17.51 ID:7WTIcmNf0.net
>>17
>稲作を日本に伝え、近畿に住み着いた。
どの呉が2500年前? 

267:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 23:33:04.89 ID:xzbpoGOs0.net
>>241
呉王夫差が越王勾践に負けて、その遺児が日本に渡ったていう説だな。

19:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:19:51.35 ID:K7jfLdhU0.net
九州から吉備を経由して奈良に移ったということでみんな邪馬台国でいいじゃない

21:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:20:39.65 ID:KaciuQ1r0.net
大和朝廷と邪馬台国はそれぞれに存在したんじゃね
なんで、大和朝廷を邪馬台国にしたがるんだ?

30:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:25:07.96 ID:iJHTWNMa0.net
>>21
邪馬台は当て字
で読みは「やまたい」
これに当てはまるのが大和

38:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:28:48.15 ID:KaciuQ1r0.net
>>30
だから、ヤマトは九州にも沢山あるじゃん
そもそも畿内と九州には同じ地名の一致が多いような気がする

45:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:31:18.73 ID:YQfMiQ2L0.net
>>21
おれも基本というかベースはその考え
記紀でも神武東征でナガスネヒコが出てきて、お互いの神についての
問答とかあるからね。

だが邪馬台国そのものは九州が原点。
魏志倭人伝では冬でも暖かく、野菜が取れて
なおかつ隋書とか見れば、どう見ても近畿は考えられない。

25:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:22:46.68 ID:ukFY3QNp0.net
原典の魏志では山壹国。やまいち国、って誰かが言ってました

225:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 23:22:11.86 ID:26kzDnOi0.net
>>25
その邪馬「壹」の字の読みが、古代も「イチ」と呼んでいたのか?
漢字の旁が「豆」なので、「トウ」と読んでいた可能性も指摘されている。

46:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:31:25.43 ID:4OojtBQL0.net
邪馬台国は大きかった、と思えばいいだけではないだろか('A`)

57:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:35:46.24 ID:qhjd8xo70.net
邪馬台国が近畿にあったとすると、近畿から九州北部にいたる連合国家が当時成立してたことになる。
しかし、大和朝廷の時代には、出雲、吉備には大きな勢力があり、ここを治めるのに
大和朝廷はかなり苦労してるわけで。
魏志倭人伝でも、出雲、吉備には何の言及もないんだよな。

70:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:39:49.52 ID:9ziWNRSd0.net
>>57
まあ普通に考えて九州だろう
地理的にも勢力的にも遺跡・遺物的にも

87:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:46:56.35 ID:SLwtFw3i0.net
>>70
九州は遺跡、遺物がしょぼすぎるんだよ。
200m以上の古墳があるのは吉備と奈良だけだ。

76:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:42:55.42 ID:SLwtFw3i0.net
>>57
当時5万戸の人口があったという投馬国が吉備だろ。
吉備の巨大前方後円墳を見れば、5万戸の強大国であるのは九州は無理、吉備しかない。
九州のしょぼい人口とは比べられんからな。

61:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:37:17.20 ID:YQfMiQ2L0.net
邪馬台国と仲が悪かった狗奴国の位置を考えれば
隼人や熊襲の南九州が狗奴国に比定できるが、
近畿説だと狗奴国候補のネタが少ないよね。

68:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:38:54.97 ID:epj3KQ8u0.net
>>61

邪馬台国ではなく、狗奴国が東遷して大和朝廷になったという説もあるな。

85:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:45:57.40 ID:9ziWNRSd0.net
>>68
ていうか天孫降臨が九州南部の宮崎県だろ?
そっから神武天皇東征だ

卑弥呼は金印の福岡か吉野ヶ里の佐賀かその辺だろう
つまり北部九州だ

なら辻褄は合うじゃん

九州南部の狗奴国が東征して近畿で大和になった
九州北部の邪馬台国は滅ぼされた

114:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:54:02.72 ID:epj3KQ8u0.net
>>85

> 九州北部の邪馬台国は滅ぼされた


みんなの党みたいに、吸収合併された可能性もある。

83:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:45:20.20 ID:TjYHmczF0.net
本当は、日本はその頃統一王朝ではなかった

中国の史書には、倭国とヤマトは別の国として描かれているが、それは
日本の歴史教育では言及してはいけないことになっている

白村江の戦いであれだけの敗北をしたら、当然ながら敗北した国は
勝った国の支配下となるし、その対立勢力が日本の国にあったのなら、
その対立勢力が日本を統べるのは当たり前

102:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:50:36.23 ID:YQfMiQ2L0.net
>>83
いいところをつくね
随書やだいぶあとの明の時代でも「倭」と「日本」は別になっている。

128:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:57:02.87 ID:TjYHmczF0.net
>>102
中国の明の末期に鄭成功という日本と中国のハーフの人間が大活躍した

また、倭寇と呼ばれる海賊が朝鮮半島や中国沿岸にまで勢力を
誇っていた

つまり、この倭という民族は、実は対馬海峡などの海を統べていた民族
日本にも朝鮮にも中国にも倭人は存在し、中国の倭人と日本の倭人との
間に生まれたのが日中混血の鄭成功。昔は陸より海が交通にとって重要。

136:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:58:59.02 ID:fEbKuWN40.net
>>128
だが、それらしい史料がまるでないような?
それくらい後代になるなら、彼杵あたりの土豪とか国人領主とかの書物とかにそれらしい記述くらいどっかにのってるはずでは?

100:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:50:30.87 ID:gpIjYaUw0.net
国自体が東遷したのではなく、2世紀半ばの倭国大乱で
倭国の盟主権が北九州から畿内に移動したと見るべき。

383:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/17(月) 00:17:29.60 ID:xvCsDlb80.net
>>100
神武東遷の経過:高千穂→宇佐→岡田宮(北九州市)1年間→多祁理宮(広島)7年間→高島宮(岡山)8年間→畝傍(奈良)

神武帝が途中で7年間、現在の広島市付近に滞在したことになっているのは、強大な九州勢力と吉備勢力の間をとって、
一時的に、広島市付近にあった“中立的な弱小国”を連合王国の盟主としていた・・・みたいに解釈すれば良いのかな?

101:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:50:34.99 ID:SLwtFw3i0.net
弥生時代が始まって、稲作が始まった時期と
中国で呉が滅ぼされて大量の難民が東の海に逃げだしたのが同時期だからな。
神武東征は中国南部からの集団の近畿への漂流で間違いなかろう。

107:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:51:26.63 ID:oFBfJ7KQO.net
どっちでもいいけどさ、それより奈良と福岡の地名と配置が似てるってのが面白い

137:名無しさん@0新周年@\(^o^)/: 2014/11/16(日) 22:59:30.42 ID:EnpB26R90.net
>>107
少なくとも近畿から九州までを統治した勢力が太古にあった事は確実だわな

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